浅川達人のひとりごと

浅川達人のひとりごと
朝日新聞が2010年年末から連載している「孤族の国:第1部男たち」の第10回目に,「自殺中継 ネットに衝撃」という記事が掲載されました(2011年1月6日朝刊).2ちゃんねるに自殺予告の書き込みをした男性が自室にカメラを設置し,生中継動画をネット配信しながら自殺したという内容でした.
この特集原稿を書いた記者は「救いと牙と 紙一重の空間」という小見出しに象徴されるように,ネット上の<つながり>の特徴として,この現象を取り上げていました.確かに,ネット上にもそのような<つながり>は存在していますが,残念ながらそれはネット上だけではなく,リアルな日常生活世界においても「救いと牙と 紙一重の空間」が広がっていると,私には思えてなりません.
同級生たちにはやされて小学校の屋上から飛び降りた,というようなできごとは,私たちの日常生活世界において,少なくありません.いわゆる「いじめ」は「救いと牙と 紙一重の空間」において,日常的になされていると言わざるを得ません.それは学校教育の場だけではなく,社会全体に広がっているように思われます.
なぜこのような現象が頻繁に生じているのでしょうか.原因を一つに特定することは困難ですが,現代日本社会において選び取られている(選び取らされていると言った方がよいかもしれません)「エクリチュール」にも原因があるように思います.エクリチュールとは,ロラン・バルトが提出した概念で,平易な言葉に置き換えるなら「言葉の使い方」と言い換えることができましょう.上記の記事の中でも「ネット上ではどぎつい言葉を交わす」と書かれていましたが,この「2ちゃんねる」で語られているような「言葉の使い方」を,「2ちゃんねるのエクリチュール」と呼ぶのです.
私たちの身体が,私たちが摂取した食品から構成されているように,私たちの思考は,私たちが摂取した「言葉」と「その使い方」によって構成され,運用されています.したがって,ネット上の言葉は,ネット上だけではなくリアルな日常生活世界の「思考」をも規定することになるのです.
どのようなエクリチュールも等しく重要で,自由に選び取ることができる.そう,私たちは考えているのかもしれません.しかしながら,そのような「素朴な相対主義」の中で,「かつて」私たちの思考を支えてきたエクリチュールが忌避され,忘れられ始めているのかもしれません.かつて「口上」として口伝されてきた,言語運用上の作法の意味と意義を,再検討する必要があるのではないかと,私は考えています.
人と人との<つながり>を考える際に,エクリチュールを考察の対象とする必要もあるのではないか.本日「自殺中継 ネットに衝撃」という記事を読んで,そのような思いを強くしました.
自殺中継 ネットに衝撃
2011年1月6日木曜日